高山研Newsletter (No.26,2002年6月) |
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日本は梅雨の時期であるが、今年は天気の良い日が続くことも多く、いつものジトッとした感じがない。それはそれで過ごしやすいのであるが。何か気候が変わってきている証左であるようにも思えるのは気のせいであろうか。 「室内」(No.570)という雑誌の6月号に、鈴木博之東京大学教授が「格付け社会」として寄稿している。 「グローバリゼーションとは格付け社会のことではないか」という一文で始まる。「学生の成績を適正に付けよとか、教師自身も業績などで格付けされはじめている。・・・だが、評価や格付けのもつ欺瞞や政治性を感じる場合も多い。どのみち評価は、評価されるポイントをクリアしたものが高得点を得るシステムである。しかし、評価のポイントは本来は多様であるべきものだ。一旦評価されて格付けされてしまうと、あたかもそれが万能であるかのようにひとり歩きをはじめる。・・・本当の意味で夢をもてる社会とは、自分の資質、自分の気質を活かして生きていける社会ではなかろうか。追い立てられ、格付けされる社会は、本当に国際社会というものだろうか。」 このような内容から思い出すのは、「マクドナルド化する社会」(早稲田大学出版部)においてジョージ・リッツアが指摘している官僚制化である。官僚制化には以下の4点が求められる。 ・効率性 これらは形式合理性を追求することになる。最適な手段がすでに存在しており、個人は自分で工夫を凝らす裁量をもっていない。人々は単に従えばよいことになる。このような考えは脱人間化を目指すものであり、全く教育にはなじまないものである。人間を教育するのに、機械を作るように同じルーチンで対応できるはずもない。しかし、大学も社会機構の一部であり、またこれからも18歳人口の低減が起こってくる状況では、そういった議論もはかない抵抗でしかないのかもしれない。 結局は、教員個人の熱意と努力に期待するしかないのか。それが使命と言われればそれまでであるが、そういった努力を業績と認めることも検討すべき時ではないのか、と感じている。これと同様の意見が、学士会報No.829(2000.10)に「大学人の役割」として橘木俊詔氏(京都大学経済研究所教授)が述べている。少し抜粋してみよう。 「学者の数が多ければ、全員が研究に身を投じる必要はない。・・・今の時代では研究に専念する人と教育に専念する人の区別があった方がよい。・・・いい研究者、いい教育者共に社会への貢献は大きい。・・・学生に学問の深さを教えてそれの修得を求めるよりも、論理と思考の大切さを修得させて方がよい。・・・大学の学部教育は幅広い教養の修得を中心にし、高いレベルの職業教育は大学院の修士レベルに移行するのが望ましいと考える。」 今後の大学像を考える上で参考とすべき意見である。大学の未来は今年の梅雨空とは違って、だいぶ雲行きが怪しそうである。 << 卒論にいそしむ研究生 (平成14年6月26日 高山峯夫記) |
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